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第3話 探偵学園の日常と序列の壁

Author: いろは杏
last update Last Updated: 2025-10-17 21:10:41

 チーム『ラストホープ』の奇妙な共同生活が始まって、数日が過ぎた。

 西寮――旧別館の三人部屋は、日当たりも風通しも悪い。男女混合という異常な環境に慣れるとは言い難かったが、三人はそれぞれのやり方で、最低限の生活を成立させようと努めていた。彼らの適応は三者三様で、そこに性格と資質が如実に滲む。

 朝、一番に起きるのは猛だ。夜明けと同時にベッドから跳ね起き、兵士の点呼のような勢いでトレーニングウェアに着替える。

 静寂を平然と破り、部屋の片隅で腕立て伏せと腹筋。そのまま外へ飛び出して敷地内を走り込み、汗だくで戻ってくるのが常となった。

 彼にとって朝の騒々しさは『鍛錬の証』だが、同室の二人にとっては安眠の敵である――この非対称性に、猛自身は気づいていても修正までは至らない。

 次に起きるのは青野である。彼は猛とは対照的に、朝を優雅に使う。

 携帯用のティーセットで紅茶を淹れ、読書をしながらゆっくり口に運ぶ。湯気の向こうで、彼はよく観察していた。

 ベッドで気配を消す白河の沈黙も、トレーニングから戻って床に転がる猛の息遣いも、彼には情報であり材料である。彼はそれらをただ見るのではなく、後で役立つ配置として頭に並べていた。

 そして白河。彼女は二人が部屋を出るその寸前までベッドの中で気配を限りなく薄くする。

 着替えも洗面も、人のいない隙やトイレの個室で素早く済ませる。部屋にいる間は、自分のベッドで膝を抱え、分厚い専門書かタブレット端末に逃げ込むのが常だった。

 彼女にとって見られないことは安心の前提条件であり、男女混合という状況はそれを恒常的に侵す。彼女の神経は、常に小動物のそれに近い警戒域で稼働している。

 食事もいつの間にか一人で終える。食堂で彼女の姿を見ることは稀だった。消耗を避けるため、彼女は人との接触を最小に保つ戦略を選んでいる。

「おい白河、ちょっとは部屋から出ろよ。カビ生えるぞ」

 猛が何度か声をかけるたび、白河はビクリと肩を震わせるだけで返事はない。返す言葉より先に防御が作動してしまうのだ。

「まあまあ、赤星くん。白河さんには白河さんのペースがあるんですよ」

 青野は宥める。しかし、彼には二人の摩擦を面白がっている節が見え隠れしている。

 チームワーク以前に、まともなコミュニケーションすら成立していない――それが、現時点の『ラストホープ』の正確な診断だった。

     * * *

 授業が始まると、三人の凸凹はさらに鮮明になった。

 不知火探偵学園のカリキュラムは、探偵に必要な領域を横断する。午前は座学――推理学、法医学、犯罪心理学、情報分析、暗号解読。

「――つまり、ベイジアンネットワークを用いることで、不確定な情報下における仮説の|尤度《ゆうど》を定量的に評価し、より確度の高い推論を導き出すことが可能となるわけです」

 教壇の|神宮寺慧《じんぐうじ けい》教官は、論の積み上げに無駄がない。

 だが猛には、その論理は呪文に等しい。彼の意識はしばしば瞼の裏へ滑り、辛うじて睡魔と拮抗している。未知の語彙は、彼にとって今は障害物でしかない。

 一方、青野は涼しい顔でノートを取り、要所で鋭い質問を差し込む。問いは虚飾なく、授業の骨格を確かめる種類のものだ。神宮寺の目がわずかに愉悦を帯びる。対話が成立する相手として認められた証だ。

 白河は、水を得た魚だった。難解な説明を平然と吸収し、ときにこう問いを放つ。

「……先生、その理論ですと、特定の条件下におけるモンテカルロ法の収束速度に問題が生じる可能性は考慮されていますか?」

 声はか細いが、内容は正確に急所を突く。その瞬間だけ、彼女の表情には確かな自信が宿る。彼女にとって知識は防具ではなく、呼吸に近い。

 午後の実技になると、板は裏返る。

 広いトレーニングジム、市街地を模した実習コース。ここは猛の領域だ。体力測定の記録は次々と塗り替えられ、追跡や格闘の訓練では、元特殊部隊員の|剛田猛《ごうだ たける》教官でさえ「規格外だ」と唸る。

「うおおおおっ!」

 模擬市街地の壁を駆け上がり、ビルからビルへ軽々と飛ぶ猛に、周囲は唖然とする。彼の身体は、言語化できない何かを持っている。

 青野は体力も運動神経も平均的で、危険の見切りに長け、護身術はそつがないが上位層の生徒には及ばない。

 一方で、交渉術や尋問術のロールプレイでは、話術と心理操作の勘が冴え、相手役の上級生から情報を巧みに引き出す。彼は力ではなく状況を動かすことに快感を覚える。

 問題は白河。五十メートル走も走り切れず、護身術では触れられるだけで固まる。見学が定位置になり、同情の視線が集まる。身体が環境に対して固まることを選ぶのは、彼女の長年の生存戦略の副作用でもあった。

「おい、白河、大丈夫か?」

 訓練後、ぐったりする彼女に猛がスポーツドリンクを差し出す。白河は一瞬ためらい、恐れと礼儀のせめぎ合いの末に小さく頷き、震える手で受け取った。

 彼女にとって受け取るという行為は小さくない決断だ。

     * * *

 授業と訓練を通じ、三人は序列システムが単なる順位ではないことを痛感する。

 科学捜査ラボの最新機器は、原則として上位チームの専有に近い。最下位の彼らが自由に使えるのは基本的な機材だけで、高度な分析は上位への依頼か特別許可が要る。

 図書館のデータベースでも、非公開資料や最新論文へのアクセスは序列で線引きされる。情報は力であり、力は序列を強化する――構造は自明だ。

 教師の態度も違う。序列一位チーム・プロミネンス、特に神楽坂には期待が集まり、質問には時間を割いて丁寧に応じる。

 『ラストホープ』への露骨な軽蔑はないが、期待されていない空気は消えない。鬼瓦は厳格を崩さず、神宮寺は猛の学業に眉をひそめ、剛田は白河の体力に頭を抱える。

 唯一、交渉術担当のジャッカル教官だけが青野に濃厚な興味を示すが、その指導には危うい香りが混ざる。結果だけを重んじる者が教える手段は、ときに細い綱の上を歩かせる。

 他の生徒の視線も冷えていく。

 「あれがラストホープだ」「すぐ消える」――食堂でも廊下でも、ささやきは総量を増やした。囁きは評価ではなく、未来の予言のつもりで語られる。

 猛は焦りを覚え始める。身体能力は通用するが、それだけではこの学園で生き残ることはできないと、彼は正しく理解していた。

 青野もまた、飄々とした仮面の裏で分析する。自分の話術は状況を撹拌できるが、盤面を変えるには別種の力が要る、と。

 白河は俯いたまま考える。知識だけでは足りない。だが自分に差し出せるものが、何かあるだろうか、と。

 三者の思考は交わらないが、向いている先は同じだ。

 序列の壁は厚い。現実は厳しい。それでも、ここで足掻く以外の選択肢は三人のどこにもない。

 そんな息苦しい日々の朝、鬼瓦教官がホームルームで重要事項を告げた。彼は機会と脅しを同時に配る術を心得ている。

「――次の授業で、最初の本格的な模擬事件演習を行う! これまでの座学や訓練とは異なり、模擬とはいえ実際に事件に直面し、解決に導く一連の流れをやってもらう!」

 そして、意図的に間を置いてから、彼は『ラストホープ』の方へ視線を落とす。

「この演習では、解決までの速さと正確さが評価され、その結果が序列ポイントに直結する。序列下位のチームにはポイントを稼ぐ絶好の機会だ……同時に、ここで無様な結果ならば退学勧告が現実味を帯びると思え!」

 上位の面々は自信を隠さない。『ラストホープ』の三人には、緊張が走る。しかし緊張は、方向づけさえ誤らなければ、最も即効性のある燃料でもある。

 最初の試練――模擬事件演習。そこが正念場であることを、彼らは三人とも正確に理解していた。

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